どこまで不自由にしたいのだろう

ダーヌポの記事、「モトクロスコースへ行くお父さんお母さんへ」へのコメントを読んで残念な気持ちになった。記事はモトクロスのレース中、コースに入り込んだ子供と(当然ながら)マシンの接触があった事故を紹介し、コースに子供を連れてくる場合、ひもをつけてもコースに入れないよう気をつけてほしい、というもの。それに対して、コースがテープで仕切られただけの現状がおかしい、というコメントなどが残されていた。
コースと観客の間を仕切るようにして安全を確保すべきだという意見は一見正しく感じられる。でも、このような形で危険を遠ざけて解決するやり方を僕は好まない。これは例えば、指を切る可能性があるからといってカッターナイフをつかわせないとか、やけどする可能性があるからと言って、石油ストーブをつかわないようなやり方だ。安全を志向しているが、その分個人の判断と行動の自由度を奪っている。それは、本当に正しい事なのだろうか?
もちろん、程度問題である事は前提とすべきだ。あらゆる危険なものを放置せよ、と言っている訳ではない。だが、個人の判断でその危険から遠ざかる事が自由に出来るものに対してまで、なぜ判断の自由や可能性を奪う必要があるのだろうか。
子供に対して必要な事は、壁を作って守る事でなく、なぜ危険であるか、どのように危険から身を守れば良いかということであるし、それを理解出来ないくらいの年齢の子供は、そのような場に連れて行かないか、連れて行くならば放置すべきではないだろう。僕はダーヌポの記事に賛成だ。
マン島のレースを思い出してほしい。子供のボランティアまで存在するこのレースには、いかなるガードもない。200km/hを超えるトップスピードをもって市街地を走り抜けるこのレース、ギャラリーは自身の判断で観戦位置を定め、目の前を疾走するマシンを、ライダーを応援する。多くのライダーがこのレースで命を落としており、ギャラリーもまた当然、むき身での観戦が、リスク含みである事は十分に理解している。そこには、個人の判断の自由と責任を尊重する意思がある。
翻って、ダーヌポの記事に寄せられたコメントからは、安全を優先するあまりにギャラリーに判断させない意思を感じた。子供の危険を避けるためだけでなく、大人の判断すら奪い、子供扱いする意思を感じた。一見正論に見えるコメントの裏にあるのは、大人を大人にさせない、管理社会の圧力だ。僕はがっかりする。非常に残念だ。